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『お金がない少年の生活』①〜親の責任とは何なのか〜

今月は出費が多かったから飲み屋に行くの控えなきゃな〜、

今金欠だから外食我慢しなきゃな〜、

皆さんこんな経験ありますよね?

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お金がないのは誰にとっても死活問題です。

では、子供の場合はどうでしょう?

 

大人と同じ感覚でしょうか?

 

「子供だからお金がなくたって問題ないでしょ」という声が聞こえてきそうです。

たしかに家がある、ご飯がある、服がある…

でも、それだけで親としての責任が果たさせていると言えるのでしょうか。

 

この記事は『お金がない少年時代の生活』を経験した私が感じる貧しい家庭だからこそ果たさなければいけない親の責任をぜひ知っていただきたいという思いで書かせてもらいます。

 

幼少期、小学生の頃、中学生の頃、高校生の頃、大学生の頃、社会人3年目まで、25歳で結婚した頃、現在の8つの時期に区切って私の体験談を書いていきます。

 

<幼少期>

記憶がある限りの幼少期は裕福だった…

当時はクラウン、マーチ、ワゴン車(メーカー不明)、中型トラック、ユニック付きトラック、リフトを所有していた。

両親の愛をすごく感じていたしおじいちゃんやおばあちゃんもいつも一緒にいてくれた。

保育園では友達と楽しく過ごし、送り迎えはおじいちゃんのバイク!

二人乗り用ではないバイクのタンクに乗せてくれていた。

当時のヒーロー特撮物のテレビ番組でバイクに乗るヒーローがいて、タンクに跨りながらそのヒーローの真似をしていた記憶がある。

めちゃくちゃ楽しかった!今思えば時代の緩さがもたらしてくれた楽しいひとときだったのだと思う。

現代でそんな二人乗りなんてとてもできたものじゃない。

そんな幼少時代、辛い思い出といえば、保育園のブランコから転落したこととバイクのマフラーに足を当てて火傷したことくらいしか記憶にない。

当時の我が家の稼ぎは、おじいちゃんが始めた鉄工所(町工場)の利益のみだった。

父も母もその仕事を手伝っていた。実家の工場以外に工場を持つことになったこの頃から父が社長になって跡を継いだと聞いている。

この社長交代が今後の私の人生に大きな影響を及ぼしていく。

数年後、いわゆる”職人のおじいちゃん”と”勢いと見栄が大好きな父”の経営手腕の差が如実に出るのである。

この頃のままの経済状況で成人までを過ごしたとしたら確実に今の私とは別人がこの世に存在していることになっていただろう。

 

<小学生の頃>

小学生になると妹たちの認識ができるようになった。

3つと4つ離れた妹。幼いながら自分はお兄ちゃんなんだと感じていた。

私と違い妹たちは母親と接する時間をあまり取ることができていなかった。

その理由は…仕事。

父が経営する鉄工所の仕事が終わらずいつも母の帰宅は夜だった。

母が帰宅し妹たちは起きていれば「抱っこして〜」と甘えにいく。

仕事で疲れているであろう母、それでも嫌な顔せず妹たちのわがままに対応していた。

もちろん自分も参加したかったが我慢しなきゃと幼いながら感じていた。

小学校2年生の頃からスポーツ少年団に入り野球をやることになった。

きっかけは覚えていないが親戚のお兄ちゃんが始めたからだったような気がする。

自分からやりたいと願った記憶は一切ない。

小学校4年生になると毎週練習試合が行われていた。

見にきてくれるのはいつもおじいちゃん。

父と母は仕事にかかりっきりだった。

数年後に目の当たりにする父の会社の実態は、この頃から崩壊が始まっていたように思う。

幼い子供がいるのに仕事で家に帰れない…両親とも共働きなのに異常である。

働き詰めなのにお金の豊かさは感じない状況になっていた。

小学校5年生にして両親からのお小遣いは1度もっもらったことがない。

生活に困らない程度のお金すらあったのかわからない。

お小遣いは遊びに行くときにおじいちゃんからもらっていた。

おじいちゃんは鉄工所経営は引退し、昔からの知人にお願いされる仕事のみを受けて個人で活動していた。

よく「お前らにお小遣いやりたいからおじいちゃんも頑張って働くでな」と言っていた。

当時はあまり意味を理解していなかったが、今では私の両親が子供たちへお小遣いをあげられない状況を理解していた故の発言だったのだと感じる。

この時点で私のお金への感覚は周りの友人とは違う気がしていた。

小学校高学年のある日、母のつぶやきが衝撃的だったことを覚えている。

「世の中、お金がすべてだよ…」

 

…『成人後に影響を与える『お金がない少年時代の生活②〜親の責任とは何なのか〜』へ続く